関 隼
時は、夕焼け。
窓から差し込む光についた色はやけに鮮やかで、肩を並べて歩く想い人の顔がその色に染まるのを少女は何となくじい…… と見てしまった。
「………………どうしたの? シエル先輩」
名前で呼ばれても、少女はすぐに反応しない。鼓膜には届いていても、脳には届いていないといった体だ。眼鏡越しに見える瞳には生気はあるが心はなく、焦点は想い人に合いつつも見えているのは自分の心の中の風景なのだろう。さすがにそろそろ眼前で手でも振ろうかと思うくらい待った頃、ようやくシエルと呼ばれた少女の瞳に心が戻った。
「あ、えと、はい?」
突然返ってきたせいか、状況を理解し切れていないようだ。立ち止まって呼ばれたように思ったから返事をしてみた、位の認識なのだろう。
「どうかしましたか? 遠野君」
とりあえず状況理解の為の努力を始めるシエルを見て、思われ人である遠野志貴は苦笑してしまう。もちろん質問の意図はわかっているのだが、『どうした?』と尋ねたのに『どうかしましたか?』と尋ね返されたのがおかしくてしょうがないのだ。
「どうしたんですか?」
今度は笑い出した志貴を見て、シエルはさらに状況が分からなくなったようだ。少し眉をひそめて、上目遣いに尋ねてくる。志貴はその光景に奇妙な満足感を覚えて、笑顔のまま首を横に振った。
「いや、なんでもない。行こうよ」
そう言って、志貴の手がシエルの手に触れる。その瞬間、シエルの頬は夕焼けの色とは違う紅に染まった。触っている志貴が感じ取れるほどの緊張が彼女の肉を走り抜けていく。
「は、はい!」
返事する声も心なしか裏返っているようだ。見ると、頬を赤く染めたまま顔がうつむいてしまっている。志貴が歩き出しても、シエルの歩みは緊張のせいかワンテンポ遅れていて、傍から見れば真っ赤になってうつむいている女子生徒を男子生徒が手をつかんでどこかへと連行しているようにも見える。さすがに違和感を覚えたのか、志貴は歩きながら後ろを振り返り、ワンテンポ遅れる彼女に声をかけた。
「あの、先輩? 何でそんなに緊張してるの?」
「え? いや、その、あのですね! …………」
「ん?」
『あのですね!』の後が続かない。志貴の顔に疑問符が浮かぶ。その状態のまま数秒間歩みを進めた後、シエルは搾り出すように言葉を舌にのせた。
「なんだか、この前読んだ小説のようで、ですね。ああ、遠野君がいるんだなぁって」
「小説って…… あの有彦が押しつけてた少女小説?」
思わず立ち止まった志貴の脳裏で、バカづらをした有彦がピンクの表紙で男にとっては恥ずかしいタイトルのついた可愛いイラストつきの小説をシエルに押しつけている光景がプレイバックされる。
「はい」
「先輩全部読んだんだ……」
人の良さにあきれ返るような志貴の言葉に、シエルは素直に頷いた。
「ええ、面白かったですよ?」
「そりゃ先輩が読み慣れてないだけだよ」
下手な事を言えば又貸しされかねない事を感じ取った志貴は予防線を張る。ついでに顔の方向を前に戻し、再び歩き始めておいた。ここまですれば最悪の可能性はつぶしきれるだろう。しかし、続くシエルの言葉は志貴の予想したものとはまったく違うものだった。
「でも…… お話に出てくるような事を、自分の好きな人とできるなんて、嬉しいです」
「え?」
「だって、今までは……」
シエルはそこで口を閉じる。形は変わったが、やっと取り戻した日常。新たに手に入れた、心を通わせた人。それらで胸がいっぱいになっているシエルだからこそ、志貴からすればうんざりするような少女小説に胸をときめかせる事もできるのだろう。志貴は何となく気まずくなってしまった。
「悪い、先輩」
「? 遠野君があやまる事なんかないと思うんですけど」
「いや、俺が悪い。ごめん」
「はあ……」
自分の心の中にしかない罪悪を謝る志貴をきょとんと見ていたシエルは、ふと思いついたようにいたずらっぽい微笑を浮かべた。
「いえ、許しませんよ? 遠野君」
「いいっ!?」
下駄箱に到着したので、手を放した志貴は驚いてシエルのほうを見る。自分の罪悪感について謝罪したのに、許さないとはこれいかに?
「私は行動で示して欲しいんです」
「行動って…… えーと」
償いをどうやって形にしようか本格的に悩みだした志貴を見て、シエルは微笑みながら提案をしてきた。
「キス一回でどうでしょう?」
「はあ……」
志貴としては、キスくらいだと恋人にする償いの形としては最安値に属している。そんなんでいいの? という部類に入るだろう。
「そんなんで、いいの?」
「はい、充分です」
「いま、ここで?」
「はい」
頬を赤らめてはいるものの、シエルの瞳はらんらんと期待に輝き、その笑顔はどちらかと言えば狩人が獲物を絶体絶命の状況に追い込んだ時の笑みに似ていた。その顔を見た志貴はため息をつくと覚悟を決める。
「分かった…… いくよ、先輩」
「お願いします」
志貴を待ち構えつつ、目を閉じる。頬を染めつつ、高鳴る鼓動を押さえつけるように自らの手をぎゅうっと握り締めるシエルの姿はまるで何も知らない少女の様で、見ている志貴の胸をも高鳴らせるものだった。
(な、なんか先輩。いつにも増して可愛いな……)
緊張を感じつつ志貴は体を近づける。徐々に唇同士が接近していく。夕暮れの下駄箱前。初々しくも仲むつまじい高校生カップルの少し儀式めいた放課後のキスは……
「し〜き〜っ!」
…………実現しなかった。
どかあっ!!
シエルの体がものを言う暇もなく近くの壁へ吹き飛ばされる。そして、志貴の唇に熱烈な接吻が襲い掛かった。
ぶっちゅううううううう……
という擬音でも聞こえてきそうな熱烈なヤツである。あ、舌が入った。
(!? なんだ? 何が起きた?)
眼鏡同士がぶつからないように首を横に傾けながらも恥ずかしそうに目を閉じていた志貴が現状を確認する為に目を開くと、そこにはシエルの代わりに志貴の口に舌を入れるくらい熱烈な接吻をしている見慣れた女性の姿があった。肩上で切りそろえられた金髪、抜けるような白い肌、その肌の色を引き立てこそすれ邪魔しない白い服、そして美しい真紅の瞳……
「ふんふんんん!(訳=アルクェイド!)」
そう、我らが吸血鬼中の吸血姫。アルクェイド=ブリュンスタッド嬢その人である。ひとしきり志貴の口を堪能したアルクェイドが唇を離すと、おたがいの唾液が糸となって橋を作った。
「やっと見つけたよ。さみしかった〜!」
このとき、ようやく志貴は『アルクェイド!』と叫んだきりフリーズしていた頭脳が再起動したようだった。突然のディープ・キスに顔を赤くしながら、彼女を指さす。
「お前、なんでいるんだ?」
「学校が終わるの待って志貴に遊んでもらおうと思ってたのに、志貴ったらなかなか出てこないんだもん。これは待ってた私へのご褒美」
「そうじゃなくて! ついさっきまで俺の前にはシエル先輩がいたはずだ。何で今は先輩じゃなくてお前がいるんだ? って聞いているんだけど」
「やだ、あんな陰険女の事なんか私知らないわよ」
アルクェイドにしてみればシエルは志貴の前に立ちはだかろうとするハードルであり、少し前は不倶戴天の敵だった女である。言葉には容赦というものがなかった。
「アルクェイド!」
しびれをきらしたのか、志貴は少し語気を強くする。それを聞いて、アルクェイドはしぶしぶ壁のほうを指差した。
「…………あっち」
志貴の視線が、素直にアルクェイドの指先から出ている見えない線をたどるかのごとく動く。そしてその先には……
「…………………………………………きゅう」
不覚にも受身を取りそこね、目を回しているシエルがいた。
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「まったく! あの吸血鬼ときたら、なんだっていつもいつもいつも……!」
太陽が西の地平線から消える寸前の薄暮の頃、ようやく目を覚ましたシエルは帰る道々不満をもらしていた。
「まあ、先輩。もう終わっちゃった事なんだからさ、おさえておさえて」
激怒しているときでさえ理知的な印象が強かったシエルが頬をふくらまさんばかりにぶんむくれているのを珍しげに眺めながら、志貴は内心胸をなでおろしていた。
(こりゃ、アルクェイドを先に帰らせてなきゃ何が起きたかわからなかったな……)
あの後、とりあえずシエルを介抱しながら志貴はアルクェイドに先に帰るよう頼みこんでいたのだ。向こうの意に沿わぬ事を頼みこむという、吸血鬼の血を摂取した人間にはかなりの重労働を何とかやり遂げ(もちろん相応の遊ぶ約束はさせられたが)、ようやく平和な下校時間を手に入れたと思ったらこれである。志貴にしてみれば、ひねくれて星をにらまないだけ自分の人間的成長を喜ぶべきか悲しむべきか…… という所だろう。
「遠野君」
(なんか、女運が微妙に悪いような気がするんだよなぁ)
「遠野君?」
(いやいやそんな事はないぞ! それを言うんなら俺の場合男運の方がよっぽど悪いわけで)
「遠野君」
(だから何でそこで男運なんて話になるんだよ! ……って、え?)
「先輩、呼んだ?」
「はい、呼びました」
まだちょっとぷんすかした顔で、シエルが頷く。
「ごめん。ちょっと考え事してて」
「…………やっぱり、考え直してもらえませんか」
シエルの瞳を見て、志貴は彼女の『考え直す』が何を指しているのかを理解した。そして、首を横に振る。
「悪いけど、それはできない」
志貴の返答を見て、シエルが少しうつむく。そうされてしまうと、志貴としてはたとえ蛇足だとしても口を開かないわけにはいかなくなってしまう。
「やっぱり、今の俺には…… アルクェイドの好意を拒絶する事は…… できないんだ」
「そう、ですか」
「別に、あいつの血だとか、そんなのは関係ないんだ。純粋に、人間としてさ」
「…………」
心の中の真実を語っている事を示す誠実な瞳の色を見て、シエルは沈黙してしまった。もちろん、分かっている。最愛の男を救う手伝いをしてくれた敵。彼女がいなければ遠野志貴という人間がここでこうしていられる事はなかっただろう。そして自分が惹かれたが故に、アルクェイドが彼に惹かれるのも当然だと考えられる。それでも―
かの姫は、常世のもの
それ故に、待つ事すら選べる
しかして、我は現世のもの
『ヒト』である事が、焦燥感すら煽り立てる
だが、これを言葉にしてはならない気がして、シエルは口を閉ざすのだ。これは、志貴とは関係がない。『ヒト』に近づくにつれて湧き上がる自らの問題だから。
「も、もちろん、俺は先輩を愛してるさ!」
志貴の言い訳はすでに男として言ってはいけない領域に踏み込んでいたが、幸いな事にシエルは真剣に聞いていなかった。彼女は彼女で志貴に自らの心を悟られまいと必死になっていたのである。
「あ」
「ど、どうしたの先輩?」
……………うろたえるな、志貴。
「じゃあ、遠野君。ここでお別れです」
「ええええっ!?」
……………………だから、うろたえるな。志貴。
「ほら、アパートあっちですから」
「ああ。そういう事ね……」
「それじゃあ」
なんとも気まずい空気が流れる中、シエルはぺこりとお辞儀をすると背中を向ける。
「じゃあ、また明日な。先輩」
「はい」
空気はあくまでも変わらず、ぎこちない挨拶が交わされる。志貴は空気を変えられる話題を持っていなかったし、シエルは自分を隠すのに精一杯で、すでに空気を感じ取れてすらいなかった。
「………………」
振り返りもせず帰るシエルの背中をしばらく見送ってから、志貴も彼女に背中を向けて、屋敷に向かって歩き始めた。
$
「はあ…………」
誰もいない部屋の電気をつけて、シエルはため息をつく。とりあえず夕飯の支度など始めようとしながら、あきらかに心は上の空だった。
『し〜き〜っ!』
シエルにフライングクロスチョップをかます為に地を蹴ったアルクェイドの顔が脳裏をかすめる。
(あんなに、きれいな顔を見せるなんて……)
自分と相対していた時には、あんな顔ができるなんて思いもしなかった。無邪気な、少女の顔をしたアルクェイド。
(認めたくは、ないけど)
負けているような、気がする。もちろん、志貴は自分を選んでくれた。でも、アルクェイドの言葉も、気になってはいるのだ。
『肉体関係があるのなんか、気になるわけないでしょ?』
アルクェイドは『心』が欲しいと言った。自分は……
(最近は、キスをするだけで真っ赤になっちゃって)
志貴が自分の事を選んでくれた事に甘えているんだろうか? それでも―
戻ってきた日常の味があまりにも甘美で
楽しくて、本当に楽しくて……
初々しい『恋』を楽しむ時間があることが嬉しくて
受け取るばかりで、自分からは……
受け取り、愛される少女の時間を享受してきたが……
(もう、終わりにしなきゃいけないのかな)
受け取ろうとして、与える事を楽しんでいるように見えるアルクェイドに感じている敗北感を打ち消したかった。愛されているだけではなく……
(私から離れられなくなるくらい、与えたい)
カレーをかき回していたおたまが止まる。シエルの手が、ぎゅうっと握り締めているのだ。決意を込めて。
(そう……)
もう決めた。私はもう一度戦う。そう―
(少女では、いられない)
強火で温めて直していたカレーは、かき混ぜる手が止まったためか、焦げる兆候を見せ始めていた。
$
「おはようございます!」
「あ、ああ。おはよう」
翌朝、いつもより元気なシエルの挨拶に気おされる志貴がいた。
「今日は、ずいぶん元気だね」
「ええ、元気ですよ。なにしろ―」
シエルは本気の目をしながら微笑んだ。
「アルクェイドと、戦うことにしましたから」
「なんだって!?」
もちろん志貴は狼狽する。その狼狽がどこから来るのか瞬時に理解して、シエルは苦笑した。
「違いますよ。殺しあうというわけではないんです」
「じゃあ、どういう……」
志貴の言葉に答えようとシエルはうーんと言葉を探す。しばらくの思考時間をおいて、シエルは首を横に振る。
「うまく教えられないので、秘密にしておきます」
「そんなぁ!」
「じゃあ、ヒントをあげましょう。そうですね……」
今度は楽しそうに言葉を選んで、シエルはこう言った。
「私も、少女ではいられないってことです!」
(了)
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